INDEXへ戻れます。

モドル | ススム | モクジ

● 友達ごっこ --- 数学 ●

 お昼休み。午前中の授業は全て終わり、教室には殆ど人がいない。学食に行く人が多いからかな。それとも、今日みたいによく晴れた日は、購買で買ったパンやお弁当を外で食べるからかもしれない。わたしはといえば、購買で買ったパンも食べ終わって、時間を持て余していた。いつもだったら、蓮子と学食を食べに行くんだけど……。とりあえず、昨日やりそびれた五限の数学の予習をするべく、教科書や参考書を机に広げてはいるけれど、なんとなく勉強に身が入らない。
 蓮子はどうして怒ったんだろう。
「……分からないよ」
「ん? どの問題が?」
 思わず呟いた言葉に、背後から返事が付く。驚いて振り向くと、そこには哲己くんがいた。
「? あ、もしかして今日数学当たるの?」 机の上に出した数学の教科書に気づいたのか、哲己くんは納得したように呟いた。
「あ……えっと…………」
 しどろもどろになって、言葉がうまく出てこない。今日の朝のことだって謝らなくちゃならないのに。
 自己嫌悪で、わたしは俯きがちになってしまった。ただでさえ猫背がちな背中が、丸く曲がってしまう。
 けれど、哲己くんは特に気にした様子もなく、隣の席の椅子を近くに移動させてどっかりと座った。
「よかったら、俺が教えてあげよっか?」
「え……」
 予想外の言葉に顔を上げると、哲己くんは軽く頭をかきながら、もう片方の手で教科書を持ち上げた。
「大丈夫だって。確かに俺バカだけどさ、これでも数学と世界史は結構イケるんだぜ?」
「あ、でも……そんなの悪いし。…………ごめんなさい、迷惑掛けて」
「どうして謝るの? 別にいいって、これ位。それに、こういう時は『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』だろ?」
「あ、ありがとう」
 ほとんどなりゆきで、哲己くんに数学を教わることになってしまった。
 意外なことに――というのも失礼だけど――、彼の教え方は分かりやすい。
「んで、後はこの公式を変形して……」
「あ、分かった。代入するんだ」
「そう、その通り。で、証明終わり! な、数学なんてパターンさえ掴めば結構簡単だろ」
「うーん、簡単とは思えないけど、でも苦手意識は薄れてきたかな」
 数式や図を書き込んだノートから顔を上げると、哲己くんはわたしをじっと見ていた。真っ直ぐすぎる視線に耐えられなくて、思わずまた視線をノートに落とす。
「ごめんなさい、……わたし、何か変なこと言った?」
「んな、怖がらなくて大丈夫だって。……避けられてるんじゃなくてよかったって思って」
「あ、……ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいって。……皆にそうやって気ィ使ってたら、疲れるだけだろ。これからは、すぐに謝るの禁止」
「ごめんなさい……って、あ」
 恐る恐る顔を上げると、哲己くんは笑っていた。
「言ったそばから謝ってるよ」
「でもわたし、トロイし卑屈だし、みんなに迷惑かけることしか出来ないから。人と話す時だってすぐにどもるし、それに……。わたしだってこんな自分大嫌い」
「でも、今は普通に話せてるじゃん」
「え」
「もしかして、気づいてなかった? ……いいんじゃねーの、別に焦って自分変えようと思わなくても。それに、変わろう、変わりたい……って思った時点で、一歩理想に近づけてると思うけど」
 哲己くんはそう言うと、一度言葉を切った。椅子を引いて足を伸ばし、続ける。
「永久ちゃんは、どんな風になりたい?」
「わたし? わたしは……」
 せめて、人の目を見て話せるようになりたい。背筋をまっすぐ伸ばして、歩けるようになりたい。それから、自分に自信を持てるようになりたい。そう、憧れの蓮子みたいに。
「それが漠然とじゃなくて、頭ん中に具体的に思い浮かぶんだったら、第一段階クリアなんじゃない?」
「そう、かな」
「そうそう」
「哲己くんにもあるの? 理想」
 そう尋ねると、哲己くんは腕組みをして宙を見上げた。
「あるにはあるけど、理想ってのとはちょっと違うかな。どっちかといえば目標みたいなもんだし」
「どういうこと?」
「んー、ま、永久ちゃんならいっか。……蓮子サンの視界に入ること、かな」
 蓮子の、視界に入る?
 どういう意味だろう。だって、蓮子はちゃんと人の目を見て話す。哲己くんとだって、十分仲がいいように思えるんだけど。
「それって、どういう……」
「それより、もうすぐ始業時間だし、次の問題行くよ。これはさっきの問題の応用で……」
 哲己くんは、それ以上そのことについては話さなかった。ちらりと横目で哲己くんを盗み見た。真剣に説明してくれているその表情を見て、考える。
 ともするとわたしは今までずっと、逃げることばかり考えてきたのかもしれない。けれど、今は心から思う。変わりたいって。
 ふと哲己くんがこちらを向く。
「? ちゃんと解き方、聞いてる?」
「あ、……はい、ごめんなさい」
「あ、また謝った」
 その時、笑った哲己くんの表情があまりにも眩しすぎて、……わたしはさっきとは別の理由で、顔を上げることができなくなってしまった。それ以上哲己くんの顔を見るのは、何だか照れ臭くなってしまって。
 視線を少し落として、彼の手をじっと見た。日に焼けていて、節があって骨ばっていて、……大きくて。わたしの小さな手とは全く違う、男の人の手。背はわたしと同じくらいだからあまり気づかなかったけど、やっぱり哲己くんも男の子なんだな。
 その手で持ったシャープペンシルが、少しクセのある右上がりの字を、どんどんノートに書き出していく。お世辞にも上手とは言えない、罫線いっぱいの大きな文字。でも、なんだか哲己くんらしい字だった。
「……で、後はさっきと同じ。これで、証、明、終、わ、り、……と」
 哲己くんがノートに「証明終わり」と書き終わったのとほぼ同時に、予鈴が鳴った。哲己くんは椅子を元の場所に戻しつつ、早口で、
「時間がなかったから全部俺がやっちまったけど、後で自分でやってみな。分からないとこあったら、俺に聞いてくれればいいし」
 と言って、そのまま自分の席へと戻ろうとした。
 そうだ、今、朝のことを謝っておかないと。
 そう思ったけれど、「ごめんなさい」は言わない約束をしちゃったし……。
「哲己くん」
「ん?」
 哲己くんが振り向く。
「あの、……ありがとう。数学教えてくれたのも、朝、挨拶してくれたのも。わたし、すごく嬉しかった」
 ごくごく自然に言葉が出た。哲己くんは「どういたしまして」とでも言うように、右手をひらひらと振って、席に戻っていく。
「やりゃーできんじゃん」
 気がつくと、目の前に蓮子が立っていた。わたしが見上げると、彼女はわたしの髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
「本人に直接謝ったから、褒めたげる」
「でも、これはやりすぎだよ」
 鞄からハンドミラーを取り出して、見た。案の定、鳥の巣みたいにボサボサに絡まってる。蓮子は全く気にしない様子で、わたしの机の上に座った。
「もう、授業始まるよ」
「まだ、三分もあるじゃん」
 教室には、いつのまにか殆どの人が戻ってきて、席についてる。というのに、蓮子はやっぱりマイペースで気にした様子は全くない。わたしは追い返すのを諦めて、ふと頭に浮かんだ疑問を尋ねることにした。
「そういえば、前から思ってたんだけど、どうして哲己くんのこと『こてっちゃん』って呼んでるの?」
 だって、「なかがみさとみ」がどうやったら「こてっちゃん」になるっていうんだろう。
「ああ、だってあいつ、チビで色が黒いじゃん。だから」
 蓮子はあっさりそう言った、それから時計を見て「げ、もうこんな時間?」と呟き、そそくさと席に戻っていく。なんだかなー……。

モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2001 Sumika Torino All rights reserved.